畠山 政長(はたけやま・まさなが)
生没年 | 1442~1493.閏4.25 |
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名前 | 次郎、弥次郎 |
官位 | 尾張守、左衛門督 |
父は畠山持富。畠山持富は管領畠山持国の養子となっていたが、子・畠山義就の誕生により家督相続の目がなくなった。が、畠山持富擁立を目論む家臣が出始める。細川勝元・伊勢貞親の支持を得た1460年守護の職を得て畠山の家督を将軍より許される。河内岳山城にこもる畠山義就を追い落とすが、山名宗全の味方を得た畠山義就に追われ、せっかくえた管領も罷免される。上御霊社に立てこもって戦うが畠山義就に敗れ、これが細川政元の大群を京都に集めるきっかけとなり、応仁の乱勃発の原因となる。細川勝元が幕府を抑えたため再び畠山の家督を継ぐが、河内に下向した畠山義就の勢力は根を張っており、山城国を抑えるも山城の国一揆にて撤兵を余儀なくされた。畠山義就が1490年に死去したことを受け、1493年河内に出陣し、畠山義就の子・基家を討つ。が、その間足利義澄を擁立した細川政元により基家が赦免され、正覚寺城を細川政元軍に包囲される。嫡男尚順を脱出させた後自害。