畠山 義就(はたけやま・よしなり)
生没年 | 1437~1490.12.12 |
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名前 | 義夏 |
官位 | 伊予守、右衛門佐 |
管領畠山持国の側室の子。一度養子となっていた畠山持富とその子弥三郎・政長兄弟と骨肉の争いにあけくれる。12歳で家督を継ぎ、1455年持国の死後山城・河内・紀伊・越中の守護を次ぐが、細川勝元・伊勢貞親の支持を得た畠山政長の工作により1460年守護を罷免される。河内岳山城にこもり幕府の追討軍と戦うが城は落ち高野山へ逃れる。ここで山名宗全の味方を受け、畠山政長を破る。政長の挙兵を攻め落とし、応仁の乱の直接のきっかけを作る。応仁の乱後も畠山内の争いは続き、山城の国一揆を引き起こすこととなる。河内周辺で勢力を保つが、幕府からは反逆者扱いであった。河内で死去。