北条 早雲(ほうじょう・そううん)

生没年 1456?~1519.8.15
名前 伊勢新九郎長氏、氏繁、盛時、早雲庵宗瑞
官位

長く出自不明とされ、下剋上の時代の象徴とされてきたが、実は由緒ある家柄の人間で、備中伊勢氏の伊勢盛定の次男とされている。母は幕府政所執事伊勢貞国の娘で貞親は兄に当たる。姉(長く妹とされてきた)は今川義忠の妻である北側殿。生年は長く1432年とされてきたが、これはは母方の叔父伊勢貞藤の生年らしい。資料に出てくるのは1471年備中荏原郷法泉寺への禁制であり、1483(文明15)年からは足利義尚の申次衆のちに奉公衆を勤めている。伊勢国関氏一族とか、京都伊勢氏出身とされてきたが、近年の研究により出自は確定しつつある。

北側殿のいる駿河に下向し、竜王丸(後の今川氏親)に味方し、小鹿範満を1487年自害させ、竜王丸に家督相続せしめている。興国寺城城主となった後は、1493年堀越公方茶々丸を追放、韮山城を新たな居城とした。1495年には大森藤頼を追って小田原城を奪取。1510(永正7)年頃から三浦氏との抗争により相模の覇権争いが進行し、13年7月に三崎城を落とし三浦義同を自害させる。伊豆韮山城で死去。