北条 氏康(ほうじょう・うじやす)
生没年 | 1515~1571.10.3 |
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名前 | 新九郎 |
官位 | 左京大夫、相模守 |
北条氏綱の嫡男。1530年初陣で扇谷上杉朝興を破る。氏綱死没前後、27歳の頃に家督相続する。その4年後、今川義元と富士川以東の所領を巡って対立、今川と組んだ関東管領・上杉憲政と挟撃される形となり、北条家は重大局面を迎えた。このときは武田晴信の仲介で今川義元と和議を結び、富士川以東の駿河を譲渡。翌1546年4月に河越の戦いで上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏連合軍を破った。扇谷上杉朝定は戦死し扇谷上杉氏は滅亡、山内上杉氏に従っていた諸豪族が従うようになる。1551(天文20)年には上杉憲政を上野・平井城から追う。翌年には足利晴氏に北条家の血をひく子・義氏に家督を譲らせている。1554(天文23)年、太原雪斎の斡旋により武田・今川・北条の三国同盟(善徳寺の会盟)が成立。北条家は早雲以来の駿河を諦めるかわりに関東経略に専念出来る環境となった。
1559年には氏政に家督相続。1562年3月長尾景虎改め上杉政虎の小田原来攻を退けたが、1571年には越相同盟を結んでいる。1571年没。
広範囲な検地の実施、税目の整理と税率改正、公定枡の制定、精銭と地悪銭の法定混合比率の確立、伝馬制の確立に支城制の整備と枚挙にいとまが無い。発給文書が1551(天文20)年以降大幅に増え、民政が活発に行われていた。河越の夜戦で合戦面でも名高いが、やはり内政面での成果が高い3代目である。そのおかげもあって好敵手でもあった武田信玄や上杉謙信、さらには織田信長というスーパーヒーローに殺された今川義元と比べても地味であるが、正に施政の確立を成し遂げた有能な行政の長であったと言える。