前田 利家(まえだ・としいえ)

生没年 1537織田/1538合戦事典~1599.閏3.3
名前 犬千代、孫四郎、又左衛門
官位 右少将、中将、参議、中納言、大納言

尾張荒子村に前田利春の四男として生まれる。幼少より小姓として織田信長に仕えるが、同朋衆・十阿弥殺傷事件を起こし1559(永禄2)年より一時出奔している。森部の戦いで頸取足立こと足立六兵衛の首級でようやく帰参が叶ったとされる。戻ってきた後、小姓出身者が多くいる赤母衣衆筆頭として信長の各戦争に従軍した。1569(永禄12)年には信長の命令で前田家を相続している。1575年越前2郡を佐々成政・不破光治と与えられ、のちに能登一国を与えられる。柴田勝家の与力として北国方面にて一向一揆殲滅・越中統一・対上杉に従事した。 本能寺の変後、勝家と秀吉が対立し苦しい立場となる。勝家は尊敬する上司、秀吉は長い友人であった。柴田勝家側で参戦した賤ヶ岳の戦いで突如退却し戦の行く末を決定づける。秀吉に降伏し、能登一国と加賀半国を与えられた。小牧・長久手の戦いには従軍しなかったが、その後佐々成政を富山城に破っている。九州攻めには子・利長を参陣させ、小田原攻めは松井田城包囲に加わった。このほか、有力大名として伊達政宗・南部信直らの取り次ぎを行ったりもしている。

天下統一後も、朝鮮出兵での名護屋への参陣、秀頼守役として重きをなした。

秀吉死後、遺言にて大坂城にて秀頼の後見を任される。秀吉遺訓を破った家康譴責の中心的役割を果たしたが、家康と会談するなど家内融和に努めている。後の関ヶ原の戦いで東軍に突いた諸将も、利家と家康の間が緊張したときは利家の側に集まってきている。家康を向こうに回して戦が出来る唯一の宿老だったが、健康を害し大坂城で没。