松平 広忠(まつだいら・ひろただ)
生没年 | 1526~1549.3.6 |
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名前 | 千松丸、仙松、仙千代、次郎三郎 |
官位 |
松平清康の嫡男。清康が死亡したときは10歳。桜井松平家の叔父・信貞に岡崎城を追われ伊勢・遠江を流浪する。吉良持広や今川義元の後援、岡崎の家臣大久保忠俊との連携で岡崎に戻ることが出来た。が、東三河は今川氏に占領され、西三河は織田氏の侵略を受けていた。1540(天文9)年安祥城を織田家に奪われ、1542(天文11)年の小豆坂の戦いで織田に敗れ形勢悪くなる。1541(天文10)年水野忠政の娘・於大と婚姻し独立を維持しようとするも(広忠と於大の間には嫡男・竹千代~のちの徳川家康~が生まれている)、1543(天文12)年忠政死去後その嗣子信元は織田方に付いたため於大を離縁している。1547(天文16)年に嫡子竹千代を今川へ人質へ送ろうとするも、継室の父戸田康光に奪われ織田方へ渡された。それでも今川に付いた広忠に今川は報い、1548(天文17)年の小豆坂の戦いで小康を得た。1549(天文18)年、近臣岩松八弥(織田方の佐久間全孝の刺客ともいう)に刺殺され死亡。病死とも言う。享年24歳。