村上 義清(むらかみ・よしきよ)

生没年 1501?~1573.1.10
名前 武王丸、左衛門督
官位

武田信玄を二度破った曲者である。武田信玄の物語においては、初期の壁となって聳えだっている。1541年海野平を武田信虎諏訪頼重と協同して占領、一族の真田幸隆は上野へ落ちた。

その後武田家は晴信が家督を相続し、諏訪頼重を殺害、勢力は来た信濃に及んできた。上田原で晴信を打ち破り負傷させ、板垣信方を戦死させている。これにて義清は小康を得た。村上義清が高梨政頼を攻めている間に砥石城を狙うも晴信は敗退(「砥石崩れ」)。晴信に挫折を与えた。

その間にも小笠原長時は敗れ信濃における武田勢力は強くなっていった。真田幸隆の暗躍もあり、葛尾城が落ち、義清は上杉謙信を頼った。一度は旧領を回復するも答えきれず、越後の客将として余生を生きた。川中島の戦いにも上杉方として参陣している。また、織田信長への使者を務めるなど上杉家中で一定の活躍を見せた。最後は越後根知城で死亡。旧領回復の夢は果たせなかった。