毛利 元就(もうり・もとなり)
生没年 | 1497.3.14~1571.6.14 |
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名前 | 松寿丸、少輔次郎 |
官位 | 治部少輔、右馬頭、陸奥守 |
毛利弘元の次男。1500年、家督を毛利興元に相続した父とともに猿掛城へ移る。兄は大内義興の上洛に随行し苦労した。5歳で母、10歳で父と死別し、侍女に育てられた。1516年興元が死に幸松丸が家督を相続すると、庶家の多治比元就としてこれを補佐した。1517年の遅い初陣では、武田元繁を打ち武名を高めた。後年、「西国の桶狭間」と呼ばれる華麗な戦いであった(この戦いの方が桶狭間の戦いよりも前なのであるが)。
1523年、幸松丸の死去によって家督を相続している。弟・元網を討つなど家内混乱の中での相続となった。国人領主連合の一家に過ぎない毛利家であり、この頃は尼子か大内か、二大勢力に挟まれて難儀する典型的な国人の一人であった。武田氏征伐の折に大内氏から尼子氏に鞍替えしていたが、相続の際の尼子の策謀をきらい大内氏麾下に戻ることとなる。高橋氏・武田氏を滅ぼす一方、周辺の諸氏との連携を深めた。1540年には尼子晴久に吉田郡山城を包囲されるが大内氏の援軍も得てこれを撃退、その後の尼子攻めでは大内氏が敗れるなど、安芸は戦乱の家中となった。尼子攻めの失敗で大内氏は文治的内向性が強くなり、芸備の仕置は元就の自由度が増える結果となった。吉川氏・小早川氏に養子を入れ勢力を拡大していたが、小早川繁平(失明)の廃嫡、吉川興経父子の殺害など強引な手法で吉川元春・小早川隆景の家中基盤の確定を急いだ。これは、陶隆房の動きから大内氏の不穏な動きを予知していたことに起因しているとされる。
1550(天文19)年、井上一族を誅殺し、家臣238名に起請文を要請した。井上氏の専横はそれなりだったらしく、元就は堪忍を強いられていたようだ。これにより家臣の独立性は薄まり、毛利氏は戦国大名化が一気に進むこととなる。それで大内義隆が陶隆房に討たれる大内家のクーデターが発生。元就は当初は陶晴賢側の動きを見せていたものの、石見の吉見政頼の離反を受けて晴賢と断交、厳島を占領し陶軍を誘い込む。水軍を味方に付けた毛利軍の奇襲により、陶晴賢は敗死。1558年には大内義長も討ち周防・長門を手中に収めた。大内義長の実家でもある大友家とは九州の大内領の割譲で手を打っていたが、次第に対立、毛利氏は九州への出陣も行うようになった。毛利隆元の急死という誤算はあったものの、尼子氏を降伏させることにも成功。中国地方における覇権を確立した。
大友氏の策謀による尼子残党の蜂起・能島村上氏の離反・備前浦上氏の抵抗への対応中死去。享年75歳。
「三本の矢」のエピソードは創作だが、三子へあてた教訓状は弘治3年11月25日付の書状として実在する。吉川元春も小早川隆景も他家に出たけど兄・隆元を支えよとのもので、毛利両川体制として長く続いた。織田軍の猛勢においては吉川元春の武勇が、豊臣政権下の難しい政局においては小早川隆景の立ち振る舞いが毛利家を助けた。
毛利元就はとにかく策謀の人として後世に伝えられている。一国人から中国地方の太守となったのは戦国史においても偉業であり、汚い手も数多く使ったということで捉えられている。だが毛利家は家族的なぬるいところが多分にあり、その甘さ・ぬるさが関ヶ原における毛利輝元の西軍総大将受諾であり、幕末毛利敬親の無能演技による家中統制である。結局は毛利家を公爵家として伝え、維新の原動力に仕立てたのは大江広元の家柄をふんだんに引き継いだ元就の人生であったと言える。