山本勘助 山本勘助(やまもと・かんすけ)
生没年 | ?~1561 |
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名前 | 源助貞幸、晴幸 |
官位 |
三河国宝飯郡牛窪出身。父祖は駿河国富士郡山本村に住んでいたという。 1543年板垣信方の推挙で晴信に仕え、250貫文の知行を与え後に500貫文にしたという。色は黒く片眼で足は片足引きずっていた(「びっこ」)という。川中島の戦いで啄木鳥の戦法を軍師として提案するも上杉謙信に見抜かれ、責任を取って突撃して戦死したという。 実在が疑問視されていたが、山本菅助なる人物が武田晴信書状で発見され、上層の身分であったことが発覚。実在は確認された。『甲陽軍鑑』の活躍ぶりは伝説の域だが、武田家に実在した武将ではあったようだ。