山名宗全の子。兄教豊が応仁の乱勃発後逝去したため、後嗣となる。細川勝元の子・政元と1474年和議を整えた。1479年本国但馬に戻り、因幡・伯耆の両国を鎮め、赤松領回復に戦いを続ける。播磨・美作・備前を一時は支配したが、但馬にて国衆が嫡男・俊豊を擁立し離反したため但馬へ戻った。1489年の六角討伐には従軍しており、幕府での重きは引き続き持たれていた。