龍造寺 隆信(りゅうぞうじ・たかのぶ)

生没年 1527~1584.3.24
名前 長法師丸、円月、龍造寺胤信
官位 民部大輔、山城守

7歳の時出家する。が、馬場信周の謀略で龍造寺一族は多くが死しており龍造寺家兼の遺言で還俗、水ヶ江龍造寺家の家督を相続する。その後龍造寺本家の家督も継ぐ。家臣の反乱で佐賀城を離れ筑後へ逃げるもこれを回復、しつこく挙兵する仇敵・少弐冬尚勢福寺城に滅ぼしたが、大友の軍勢が佐賀城にやってくる。これを義弟である鍋島直茂の活躍も有今山の戦いで撃破する。今山の戦いは後年「西の桶狭間」とも呼ばれる鮮やかな名勝利ブリであった。その後は肥前・筑前で勢力を拡大、有馬氏・大村氏と抗戦し肥前の地盤を強固にする。筑後・筑前・肥後にも勢力を拡大し、「五州二島の太守」とも呼ばれるが、肥後攻略で島津氏と結ぼうとした当たりから歯車が狂い始める。一度降伏した有馬氏が島津の側になびき、島原半島が緊張する。沖田畷の戦いで川上忠堅に討たれて死亡した。