和田 惟政(わだ・これまさ)
生没年 | ?~1571.8.28 |
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名前 | |
官位 |
室町幕府奉公衆。元は甲賀の土豪であり、六角氏の被官であった。足利義輝が弑殺され足利義昭が逃げてくるとこれをかくまう。若狭武田氏・越前朝倉氏へ逃れるのを手助けし随行した。
その後織田信長の手により義昭を奉じての上洛が実現し、惟政は高槻城城主となる。伊丹親興・池田勝正とともに「摂津三守護」と称される。信長・義昭の二元政治において、幕府側の人間として信長家臣と多くの文書を発出している。1569(永禄12)年頃から文書に名前が見られなくなり、義昭・信長関係悪化に伴い信長の勘気に触れていたと推測される。姉川の戦いで活躍し、その後も信長側で戦う。混迷する摂津の情況に苦労し、本願寺顕如に通じたりもする一方(本願寺側から拒絶された)、周囲からは完全に信長側の人間として見られており、松永久秀・三好義継・三好三人衆によって攻撃を受ける。摂津郡山の戦いで池田知正と戦い戦死した。
キリスト教の多大な庇護者であった。受洗はしていないが、フロイトからの信頼が記録に残っている。