会津若松城(あいづわかまつじょう)

別名 黒川城、鶴ヶ城
創建年と創建者 1384年、蘆名直盛
形式 平台城

1379年会津に入部した三浦氏一族佐原氏の後裔蘆名氏が黒川の丘陵に築城し、東黒川館と称したのが始まりである。1543(天文12)年に大々的に修築が行われたが、1589年蘆名氏は伊達政宗に滅ぼされる。豊臣秀吉はこの城に入って奥州仕置を言い渡している。その際黒川城は蒲生氏郷に与えられた。1592年、黒川城の大改修を施し、町を若松、城を鶴ヶ城と改めた。現在残る会津若松城は基本蒲生氏郷時代の城がベースであり、蘆名氏時代・伊達氏時代の黒川城が会津若松城域にあったとされるのも近世時代の史料に基づ話となっている。上杉景勝が1598年入部するが、城域または城下が狭く発展性に欠けること、南東部の小田山が城に近いことから要害性に欠けることから、神指城築城を開始する。が、関ヶ原の敗戦により神指城は放置された。

蒲生秀行を経て加藤嘉明が入部する。その時代に現在の城の姿が完成する。加藤明成はかなり無理をして若松城を改築したようで、新潟との車峠を開くなど、無理がたたったことも改易の一因とされている。

この城の弱点は東方の天寧寺口が台地続きで脆いことで、それをうけ西の端を本丸とし、東の方を二の丸・三の丸とした悌郭式城郭となっている。枡形構えの虎口が多いが、一の門は無く、全般に建築はあっさりしている。天守台は天守郭の東北方向になっており、豊臣大坂城と同じ形式となっている。氏郷の時に7層だったが、加藤明成のときに5層になっている。

保科正之が入った後は226年治世が続いた。戊辰戦争時に攻め込まれ、大山巌の砲兵隊は小田山から4ポンド砲で天守を攻撃したが戦火に耐えた。崩れはしなかったが流石に城の損傷は激しく、廃城となった。

現在の天守は1965(昭和40)年復元されたもの。近年赤瓦となり復元度が増した。