稲村城(いなむらじょう)
別名 | |
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創建年と創建者 | 、里見氏 |
形式 | 丘城 |
国府の近い要害の地に、里見初代義実が築いた。三方の崖は削られ断崖で、山頂を削平し、南側の丘陵続きの処には堀切を掘削して防御しやすくしている。城の北側を流れる滝川が中世には館山湾につながっていたともされ、主要政治施設と海上交通の結節点を抑える要衝であった。
1533(天文2)年に里見義豊が叔父・実堯を襲い自刃した後この城へ入って里見家5代となっている。実堯の子・里見義堯は上総に居たが敵を討つべく出陣し、1534(天文3)年4月5日、犬掛で合戦し里見義堯が勝利、翌6日に義豊は稲村城で自刃している。それを機会に稲村城は廃城となった。