江戸城(えどじょう)

別名 千代田城
創建年と創建者 室町時代、太田道灌
形式 平城

世界に誇るメガシティ・東京のコアとなる城郭である。現在は周囲を埋め立てられているが、築城当時は武蔵野台地の果て、海に面した場所に江戸城は築城された。

元々は平氏分流関東八平氏の一つ秩父氏の秩父重継が江戸城本丸・西野丸あたりに12世紀初期居館を構えたことがはじまりである。苗字も江戸氏とし、子供・江戸重長は安房からの頼朝勢を迎えその麾下に入っている。鎌倉幕府滅亡においては江戸氏は新田氏につき、分倍河原の合戦にも参加している。その後足利尊氏に従い、禅秀の乱・永享の乱でも活躍しているが、庶流に分出が多く、太田道灌の頃には総領家は勢力をそがれたようだ。

1456年太田道灌は品川・御殿山から移り江戸城を築城している。1457(長禄元)年4月8日に完成を見ている。子城・中城・外城の3つの郭からなる土塁仕立ての中世城郭だったようだ。国内諸地方の物資のみならず諸外国からの物資が舟で運び込まれ、毎日市が立っていた(『静勝軒詩序』)。

太田道灌後は扇谷定正の養子朝良が居城としている。さらに朝良の養子朝興の時に太田資高が内応し北条方の手に城は渡る。腹心・遠山氏を城に入れたものの、特に補強等は行われなかった。

江戸城が大きく変化を遂げるのは徳川家康入部からである。『落穂集』によると、こけら葺きの建物は皆無、粗末な板葺き屋根で台所は茅葺き、玄関は船板を用い、板敷きの部屋が無く土間だったという。応急措置が始まったが、本格改修は関ヶ原以降だった。1606年から大改修が実施され、天下普請で全国の諸大名のリソースが結集された。約70年間にわたり日本全土の財力・労力が惜しみなく注ぎ込まれて城下共々整備された。城下は大砲が場内に撃ち込まれないよう「の」の字をした町が整備され、城の外壁を兼ねた計画都市であった。関東の諸大名の合力で5層の天守が整備されたが、1657年振袖火事で焼失、保科正之の進言もあり再建は見送られた。

3.6km、3.3kmに及ぶ広大な城域は全部守るのに10万の兵を必要とするのだという。城下町を含めた武士の町だったが、そんな江戸でも町人が力を持つようになっていった。江戸幕府終焉の時、10万の兵はとても確保出来ず、城下を灰燼にしてはならない思いを勝海舟西郷隆盛が共有したことによって江戸城は無血開城されたのは、何という歴史のアヤだろうか。