小谷城(おだにじょう)
別名 | |
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創建年と創建者 | 1516年、浅井亮政 |
形式 | 山城 |
伊吹山系の一角に築かれた浅井三代の本拠。山麓に北国脇往還、南に中山道、西に北国街道、伊吹山中には越前や美濃への間道多数という交通の要であった。応仁の乱の後京極氏は内紛で地盤沈下するが、その中で浅井亮政が頭角を現す。亮政が興味深いのは常に京極氏を立てていることである。
京極家中最大勢力の上坂信光を失脚させた1524(大永4)年、もしくは六角定頼の攻撃を迎え撃った1525(大永5)年には小谷に砦が築かれていたとされる。小谷から逃亡したりもして戦いは一進一退であったが、浅井氏はどさくさに紛れて江北における地盤を固めていった。1534(天文3)年に、浅井亮政が京極高清・高延を饗応しており、この頃には山麓の館も山上の城郭も整備されきったと考えられている。
孫・浅井長政は当初信長の妹・市を娶り破竹の勢いの織田家との同盟で六角氏も近江からいなくなり盤石と思われたが、朝倉攻めの時に離反。両軍の死闘が姉川の戦いとなるがそこで敗れる。が、城は3年持ち、羽柴秀吉が付城で監視してなお持ちこたえている。朝倉家が先に滅びると、小谷城も総攻撃を受け、浅井長政のいる本丸と浅井久政のいる小丸の間の京極丸をまず落とされ、その後浅井長政は自刃、浅井家は滅亡した。羽柴秀吉は小谷城を与えられたが、今浜城を長浜城と改名しここに移っている。発掘物からは元亀年間に織田家に対抗した時期に改修が行われていた節が伺える。