大坂城(おおさかじょう)
別名 | 石山御坊、石山本願寺、錦城、金城、浪華城、大阪城 |
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創建年と創建者 | 1583年着工、豊臣秀吉 |
形式 | 平城 |
天下人・豊臣秀吉の居城として名高い。大阪のシンボルである。
古くは難波宮跡の近くであり(豊臣期大坂城三の丸の地とされる)、戦国期には石山本願寺が存在し、織田信長と死闘を繰り広げた。石山御坊の前には寺内町が成立し、賑わいを見せていた。『信長公記』には「そもそも大坂は日本一の境地なり」という記載があり、信長の見解を伝えていると思われる。奈良・堺・京都に近く、京都には淀川水運が使えた。川が集中し大阪湾に面し防御もしやすい。実際、石山本願寺は10年にわたって信長と戦えたのである。
本能寺の変後、賤ヶ岳の戦いで池田恒興を大垣に天封した秀吉はこの城への築城を開始した。豊臣期大坂城は4期にわたる複数の工期による大事業であった。まずは本丸御殿や山里丸の茶室、安土城を凌駕する天守が作られた。1年半にして第1期工事が完了した。このときの本城は石山本願寺跡地につくられた。本丸と詰の丸、後世においてはまとめて本丸と呼ばれる区画から整備された。ついで関白就任後二の丸の整備に取りかかり、1588(天正16)年春には堂々たる輪郭式の巨城が完成した。それに留まらず、秀頼誕生後には大坂城の南部を補強し(第三期工事)、さらに秀吉が死ぬ間際に第4期工事を命じているこの第4期工事で惣構えの工事が行われた。この時、三の丸も建造されたと考えられている。
そんな天下無比の献上大坂城も、真田幸村の真田丸虚しく外堀は埋められ結局落城し、豊臣秀頼・淀君親子は自害した。
最初は松平忠明が入城し大坂市街復興に努めると共に、城の改修が行われた。石垣不足が謳われる時代であったはずだが、豊臣時代の城は埋め殺しにされて縄張りをまっさらなところから行われた。ただし、本丸は豊臣期の縄張りの継承がされていないが、二の丸はその限りでないようである。それもこれも、築城技術の進歩により、高い石垣が実現出来るようになったことが大きいだろう。1620(元和6)年から9年の第一期工事では石垣工事が行われ、1624(寛永元)年からの第二期工事では本丸・山王丸の修築が行われた。最後に1628(寛永5)年からは二の丸南面の修築が行われ、1630(寛永7)年までにはすべての工事が一通り終わったようである、ほとんどの西国外様大名が動員される天下普請であった。諸大名が競って超巨石を使ったのも徳川期大坂城の特色である。1665年落雷により天守は失われている。江戸城に倣い天守の再建は行われなかった。大坂城は落雷により度々建物が焼失している。
大坂城には大坂城代が置かれ、大坂城代、京都所司代、老中というのが譜代大名にとって一連の出世コースだった。幕末期には大塩平八郎の乱、長州征伐、戊辰戦争と大坂城も戦争に関わっている。14代将軍徳川家茂は大坂城で没している。鳥羽・伏見の戦い後は徳川慶喜は大坂城を放棄し江戸へ帰り、大坂の幕府軍は(慶喜の意図通りに)崩壊し城は落城している。このときに本丸御殿など多くの建物が焼失している。
明治時代には鎮台が置かれたりもしたが、1931(昭和6)年に徳川期天守台の上に豊臣期の天守を模した復興天守が鉄筋コンクリートで建てられている。エレベータ付の堂々たる復興天守である。この天守は空襲にも耐え、大阪のシンボルとして市民の心の拠り所となっている。なお、大阪城天守閣は収蔵物も天下一品で、博物館としての価値も高い。