国造紀俊連が日前国懸量神宮の神領保護を目的に築城。その後、太田源太夫が改めて築城している。信長の雑賀攻めの時は太田党が先導している。
秀吉に対抗して太田・雑賀・根来の各衆が連合、根来寺に寺領をすべて収めよという秀吉の要求を拒否した。秀吉は6万の大軍を差し向け、まず根来寺を焼き討ちした。太田党は数千で対抗したが、秀吉は水攻めを敢行。最後は太田左近ら武将51名が自害し降伏した。