1557年3月、大内義長は山口高嶺城を捨て、内藤隆世と共にこの城に籠城した。大内氏の残党も多く残る状況において、城攻めが長引くと後背を突かれる可能性もあり、毛利元就は力攻めに打って出る。三の丸・二の丸を占領した上で、内藤隆世の切腹の代わりに大内義長の助命を条件に開城、しかし後にこの約束は反故にされ長福寺で自害することとなる。戦後は大内氏から降った入江著親が城を守った。