河越城(かわごえじょう)

別名 初雁城、雲隠城、川越城
創建年と創建者 1457年、太田道真・道灌
形式 平城

上杉持朝が古河公方・足利成氏に対抗するために、太田道真・道灌父子に命じて築城させた。河越は武蔵野台地の東北端であり、北に川、東は沼、南は泥湿地と要害の地である。完成後は80年間扇谷上杉氏の居城となった。太田道灌が主君上杉定正に謀殺されると、扇谷上杉氏の勢力は後退、1537年に北条氏綱が河越城を落とし、北条綱成を城代とした。ここで山内上杉・扇谷上杉・古河公方が組み8万の大軍で川越城を包囲した。氏康は泣きを入れ連合軍を油断させる一方で、綱成に策を与え、首を取ることを禁止した上で河越城包囲軍をを急襲、河越夜戦は北条軍の勝利に終わった。

小田原の役後は徳川領となり、江戸城の出城として江戸市民に対する物資供給地として重視された。川越城主は譜代大名が入り、出入りも激しかった。「知恵伊豆」松平信綱や柳沢吉保も川越藩主を務めている。

本丸御殿が現存する貴重な城であるが、これは越前松平家時代の遺構で、川越城主としては最高石高である17万石の時代の遺構である。時の鐘は酒井忠勝時代の遺構である。平素はベッドタウンであり、池袋からもふらっと来ることが出来る川越であるが、小江戸として関東における江戸時代の街並みを遺す首都圏の観光地となっている。