新府城(しんぷじょう)

別名
創建年と創建者 1581年、武田勝頼
形式 平山城

長篠の戦いに敗れた後しばらく経ってから、旧体制打破と新しい領国支配の確立、織田との甲斐本国決戦に備えた拠点作りとして新府築城は行われた。

新府への築城は甲陽軍鑑によると穴山信君の進言であり、普請奉行は真田安房守昌幸である。領国総動員、昼夜兼行突貫工事で築城は進められた。2月に築城開始し9月に築城は一段落している。安土城のように石垣勃興期であったが、ローム層基盤で切り土や盛り土をしても崩壊の心配が無く、石積み不要であった。12月に移転が開始されたが、家臣の屋敷の移転に留まり城下町の移転までは手を付けられなかった。長年政治経済の中心でった甲府を離れることは親族衆ですら耐えがたいものがあったのだろう。結果として人心離反に一役買うこととなってしまった。翌年正月以降、寝返りが相次ぎ城に火を放って岩殿山へ向け勝頼は落ちていった。

本能寺の変後、甲斐侵攻した徳川勢の本拠となったのが新府城である。若神子の北条勢と向き合い小競り合いに勝利し、甲斐の確保に成功した。徳川は甲斐統治の拠点を甲府城とし、新府中たる新府は府中になること無く新府のまま終わった。