勝瑞城(しょうずいじょう)

別名 阿波屋形・下屋形
創建年と創建者 1363年、細川詮春
形式 平城

阿波人が天下に一番打って出ていた黄金期、その拠点は勝瑞城であった。

阿波守護の3代目細川詮春が秋月城から勝瑞に移った年に築城されたと考えられている。讒言で足利義詮に追討され南朝方となった細川清氏を、従兄弟である細川頼之が討伐した。阿波は頼之の弟・詮春に与えられ、戦勝を記念して勝瑞となった。細川頼之は上洛し、三管領の一家となった。

吉野川の本支流に囲まれた低湿地帯中央であり、阿波の統治の中心地となった。紀伊水道を隔てて京畿との交通至便な要害の地であった。中世にはかなり大規模な城下町も形成されていた。

勝瑞城城主7代目の細川成之は兵を率いて上洛し、細川勝元を助けた。のちに、細川義之の子澄元が阿波から上洛した三好之長の力により細川管領家を継いでいる。大内義興の上洛でいったんは阿波に退き、その後管領となった細川高国と激しく戦っている。最後は勝瑞城主細川持隆のバックアップもあり、細川澄元の子・晴元三好之長の孫・元長高国を破っている。

が、細川持隆は愛妾小少将に骨抜きにされ、小少将との子真之をめぐる御家騒動もあり、三好義賢が謀反、勝瑞城を奪った。小少将は義賢の夫人に納まり大杉殿となった。義賢が畿内戦線で戦死するとその子三好長治が継ぐが、政治は乱れ三好家弱体化もあり長治の信望は落ちていった。最後は細川真之を擁する軍勢に追われ長治は自刃、その後長宗我部元親の大軍によって三好家を継いだ長治の弟である十河存保が攻められ勝瑞城は落城。城の部材は徳島城に転用された。

現在は内堀の一部が蓮池となっており、堀の中は見性寺の境内となっている。