1519年に築かれた躑躅ヶ崎館の詰めの城。福島正成の侵攻を受けていた頃は武田信虎夫人はこの地で信玄を生んでいる。武田勝頼の時代、長篠合戦で敗れた後に修築が命じられている。
斜面を利用しつつ曲輪を連続的に配置しており、曲輪と通路の配置で防御を巧みに考えられている。遠方の眺めよく、監視に適した造りである。城の南東側にも文献には無いが遺構があり、付城的な役割を果たしていたと考えられている。