姫路城(ひめじじょう)

別名 白鷺城
創建年と創建者 1609年、池田輝政
形式 平山城

世界文化遺産・姫路城。西の丸からの大天守はテレビ番組「暴れん坊将軍」の江戸城としても名高い。

姫路城のある姫山へ最初に城郭を構えたのは、赤松則村の次男貞範とされる。貞範は1346年から3年間居城とした。その後庄山城へ移り、被官の小寺氏の居城となった。赤松満祐の乱後、播磨は山名氏の両国となったが、その後赤松政則が播磨を回復。当初は姫路を本拠としたが、その後置塩城へ移り、姫路は再び小寺氏の居城となった。1531年、八代道慶が城代となった後、1545年に姫路城へ入ったのが黒田官兵衛の祖父・黒田重隆である。黒田官兵衛は1577年、織田信長の中国方面司令官としてやってきた羽柴秀吉に姫路を差し出し、姫路は織田方の城となった。このとき姫路城は初めて天守を持整備された。信長死後、秀吉は姫路城から山崎の戦いへ出陣している。

関ヶ原の戦い後、家康の婿でもある池田輝政の居城となった。ここで今の陣容の姫路城が整備された。現存する姫路城の天守他の遺構は池田輝政時代のものである。1601(慶長6)年から本丸・二の丸の「姫山」と西の丸の「鷺山」の造成工事が始められた。その後、建築工事が行われ、工事開始から9年めの1609年姫路城は竣工した。

城主は池田氏の後本多氏、長篠の戦いで著名な奥平家の血筋である松平氏など西国大名監視を兼ねてか譜代大名が多く入っている。吉原の高尾身請けで有名な榊原政岑、姫路転封工作で有名な酒井忠恭など良くも悪くも有名人が歴代城主には多い。酒井家統治時代に家老河合寸翁の差配で姫路の産業振興が進んだ。酒井家の時に明治維新を迎えている。

1873(明治6)年姫路城は23円50銭で売られたが、瓦の再利用には一般民家用に不向きで放置された。1874(明治7)年の大阪鎮台の分営が姫路に置かれることになる。このとき天守他建造物を破却する動きもあったが、陸軍の中村重遠が山県有朋に具申し保護を訴えたことによりにより回避された。明治の大改修が行われ、1912(大正元)年から姫路城の公開も行われるようになった。第二次世界大戦では姫路にも空襲があり街は焼け野原になったが、天守は奇跡的に残り、空襲翌朝の姫路市民の希望となった。その後、昭和の大改修、平成の大改修を受け、現存12天守の筆頭として姫路城は世界中の人に親しまれている。

姫路城の特徴は、平面が正方形や長方形と言った建物がほとんどないことである。縄張りが凝りに凝っており、昨今城において敵を寄せ付けない工夫とされるものが悉く盛り込まれている。これを受けて、櫓群はゆがんだ形になっており、建物も凝った物となっている。大天守は5層7階、連立式天守であり、小天守含めその威容は日本城郭における愁眉である。姫路城の1年後の竣工では見られない、天守大破風の豪壮優美さは桃山風天守の大トリと言える。

城内には、腹切丸なる物騒な名前の曲輪、本多忠刻に再嫁した千姫ゆかりの西の丸・化粧櫓。「播州皿屋敷」で人口に膾炙したお菊井戸、邸宅風の菱の門など見所が多い。

姫路城は良くも悪くも中世時代の縄張りを色濃く残し、江戸大坂・名古屋・熊本といった他の日本5大城郭のように大軍を迎え撃つには不向きと考えられる。1000の単位の兵が籠もり、同程度の小競り合いをする縄張りである。逆にその点が史跡的価値を高めている側面は間違いなくある。平成の大改修後、姫路城天守の階段はだいぶ登りやすくなったが、天守見学まで1時間・2時間はざらのため、見学するなら朝イチで乗り込むのがお勧めである。JRの新快速で気軽に来れるため、USJと並んで関西圏から休日になると人が集まる、近畿地方における東京ディズニーランドその2と化している。姫路城には是非ファストパスの導入を検討頂き、売上は熊本城復興など城郭保存に役立ててほしい。