二俣城(ふたまたじょう)

別名 蜷原(になはら)城
創建年と創建者 1501~04年頃、俣氏
形式 平山城

二俣は浜松の北20km、天竜川と二俣川が合流する地の丘の上に築かれたのが二俣城であった。二俣城築城の経緯はあまりはっきりしておらず、『遠江国風土記伝』に文亀年間(1501年~1503年)に二俣昌長がこれを築いたとある。1514(永正11)年には二俣昌長は米倉城に移り、松井信薫が入城した。浜松城主の飯尾連竜ともども城主松井宗親は今川氏真に駿府で謀殺され、その後徳川家の支配するところとなった。1572年遠江に侵入した信玄は、中根正照の守る二俣城を攻略している。1575年の長篠の戦い(5月)後家康は奪還に動くが、武田方の奮戦も続き、依田信審は降伏開城したのは12月になってからだった。大久保忠世が城将となるが、徳川信康自刃の場となったことが特筆される。忠世が関東移封により小田原に移ると二俣城は廃城となった。大久保忠世の時代に大規模な改築が行われており、静岡県下では珍しい石垣の天守台が存在している。城の各郭が孤立しても防備可能な頑固な造りとなっており、それだけ武田・徳川の攻防が激しかったことの証左とも言える。