槇島城(まきしまじょう)
別名 | 真木嶋城、薗場城 |
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創建年と創建者 | 1231年、長瀬左衛門 |
形式 | 平城 |
豊臣秀吉が伏見城築城で手を加えるまで、槙島城のあった位置は宇治川が分岐する中州となっており、防御に適した場所であり、宇治川の渡海地点ともなっている重要拠点であった。古くは承久の乱で後鳥羽上皇方の長瀬左衛門の兵500が城を守っていることが『吾妻鏡』に記されている。その後、京都における畠山義就と畠山政長の争いでは、細川政元がこの城を攻め落としており、1499年から1503年までは政元の居城となっており、度々将軍足利義澄をこの城で饗応している。
その後時代は下り、足利義昭が武田信玄の上洛を踏まえ織田信長に敵対することを明確にした際には、この槙島城に籠もっている。が、織田勢の前に城は落城、室町幕府はここに滅びたのである。その後信長は細川昭元を配して守らせている。城跡は遺構がない。