吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)
別名 | |
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創建年と創建者 | 1336、1523、毛利時親、毛利元就 |
形式 |
鎌倉時代よりの毛利家の居城。城には127の郭があり、外周は内外に堀があり、城下町も広大なものであった。郭には石垣が多く多用され、戦国末期の山城としての威容を誇っている。
毛利元就が弱小国人時代から中国地方の覇者となるまで居城であった。1540年尼子氏が30000の兵で攻めてきたときは8000の兵で籠もり撃退しており、堅固さは実戦保証済である。が、山間にあり地理的に不便であったこと、拡張性も担保出来ないことから1591年毛利輝元は広島城へ移った。その後一国一城令で更に取り壊され、1637年にはキリシタン一揆を恐れて更に破壊されている。