若江城(わかえじょう)

別名
創建年と創建者 明徳応永年間(1390~1438)、畠山基国
形式 平城

高屋城を本拠とする河内守護畠山氏による築城。基国の孫持国の相続争いで若江城は攻防の要となった。実子義就を継嗣としたものの家臣らは養子政長を擁して対立。この対立が応仁の乱の一端となった。畠山義就が若江城は拠った。その後天文初年(1532年)には六角氏麾下の若江下野守兼俊の居城となっていた。が、六角氏に謀反を起こし高野山に追放され堀江河内守実達の居城となる。しばらくは六角氏麾下の武将のものであったようだ。三好長慶が河内を抑えたが、その間も六角配下だった。1568(永禄11)年に三好義継は若江城に入ったとされるが、これは飯盛山城のことらしい。1570年に三好義継と一向一揆が手を組むにあたり若江に入ったとされる。1573(元亀4/天正元)年、足利義昭に味方した三好義継は織田方に攻められ自刃。

その後も若江城は本願寺攻めの拠点として使われるが、本願寺との講和後は八尾城に機能が移されたようである。